東遊運動『ファン・ボイ・チャウ』の心の叫びに感動

今回は、東遊運動で有名なファン・ボイ・チャウについて書きたいと思います。
ファン・ボイ・チャウについては、2013年に放映された日越共同製作のドラマ
The Partner ~愛しき百年の友へ~
で題材にされた人なので、ご存知の多いかと思います。
ファン・ボイ・チャウの東遊運動については、ネットで検索すればわかりますので、わざわざここで書きません。

東遊運動(Wikipedia)

日本がパートナーというけど、パートナーでもなんでもない

ドラマを観てもらえるとわかりますが、一時は日本は東遊運動に対して協力的でした。
しかし、フランスに圧力をかけられて、最終的に日本はベトナムを裏切って、フランスとの関係性を重視しまた。
そのためファン・ボイ・チャウは、日本政府に対して失望し、日本での運動を諦めて、中国の革命家をたより中国で活動を続けます。

もちろん、日露戦争に勝ったとはいえ、まだまだ弱小国家だった日本が、ベトナムの肩を持って、フランスに楯突くのはほぼ不可能でしょう。
フランスとは友好条約もありました。
しかし、ファン・ボイ・チャウからしたら、日本には裏切られたわけです。
裏切るような関係は「パートナー」とは言えないでしょう。

東遊運動自体を、ベトナムが評価するのはわかりますが、
日本側から
『100年前にベトナムとはパートナーシップがあった』
というのはとても滑稽なお話だと思います。

パートナーシップがあったのは、ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎の個人的な関係であっただけです。

ベトナムにおける東遊運動の評価

ベトナムにおいては、東遊運動の特徴はこのように評価されています。

◎この運動は民主主義と近代資本主義に通ずる傾向を帯びていた。
◎闘争方法をベトナム人同胞に対する宣伝と教育に集中させた。
◎国内の民衆の知識、民衆のエネルギー、民権の拡張を主張す至方で、海外の有力な国家に援助を求めた。はじめは日本に頼り、のちに中国の革命派に助けを求めた。
◎広範な民族の団結を期した。あらゆる階層との融和、連帯をはかった。
◎国際的連帯の精神があった。
◎民族の文化、文学の発展を重視した。。

ベトナム植民地時代、いろんな地方で反仏運動が起こりましたが、横のつながりがなく、単発の運動だったため、すぐに弾圧されてしまいました。
ファン・ボイ・チャウは、海外へでて他の国と協力することで、フランス植民地政策を覆したいと考えていました。

日本を離れたファン・ボイ・チャウは、ベトナムと中国の行き来を繰り返しますが、上海でフランス官憲につかまり、ベトナムに送られます。
ハノイで裁判にかけられることになりました。
この時の裁判でのファン・ボイ・チャウの叫びには、心が震えるものがあります。

法定でのファン・ボイ・チャウ心の叫び

ファン・ボイ・チャウは、フランス人に対する8件のテロ行為について、訴追されました。
無罪を主張して、法定でファン・ボイ・チャウが主張した内容がこちら

ベトナムは独立国である。フランスは植民地の民衆を文明化するといっているが、わが国民を奴隷としただけで、ベトナム人は何も得ることがなかった。

ベトナムの支配階級は不正と弾圧によって民衆の解放の願いを圧殺している。われわれはもはや王制を支持しない。

検察官はわたしが革命を企図したというが、大勢の愛国者たちが植民地支配に反対して刑場に送られ、またいまもなお監獄に閉じ込められている。

わたしはその指導者だ。

わたしはこの世界の人々が自由、民権を獲得するために闘うのみである。

ベトナムに自由を与えよ、

民主的な政府をつくれ。

ベトナム人学生が海外で学ぶことを認めよ。

ベトナムは、フランスから独立したあとに、今度はアメリカに苦しめられるわけになります。
結局、ファン・ボイ・チャウの望んだベトナムの国の姿は、南北統一後にも成立せず、実際に開かれた国となったのはドイモイ政策ががはじまった1980年代後半からとなります。

近年、ベトナムから日本への留学生が増えています。
しかし、ベトナム人から搾取している日本人が実際にいます。
夢を持って日本に行ったのにかかわらず、借金地獄で苦しみ、犯罪に走るベトナム人がいます。
そして、技能実習生の問題もしかりです。

東遊運動の記事を書いていたら、現代の実習生の問題と重なってしまいました。
政府同士で笑顔で『パートナー』とか言っておいて、現場ではまったく逆のことがおきています。

ファン・ボイ・チャウの最後

結局、新しいインドシナ総督ヴァレンヌの措置で、ファン・ボイ・チャウは無罪になります。
しかし、フエに送られて監視つきの軟禁状態となり、その後表立った活動ができなくなります。

ファン・ボイ・チャウは、なくなるまでフエで過ごすことになります。
1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年日本軍がフランス領インドシナに進駐します。
いわゆる日印進駐です。

かつて、ファン・ボイ・チャウが日本に渡ったのが1905年です。
日本の姿に感動し、日本での活動を活発化させますが、結局は日本政府には裏切られたのでした。
そして、それから30年して、日本軍がベトナムにやってきました。

ファン・ボイ・チャウの心情はいかがなものだったのでしょうか。

日印進駐から一ヶ月後、ファン・ボイ・チャウは亡くなります。
当時の手記は残っていません。

追記 アワビの片思い(ゲゲの鬼太郎 ベトナム戦記から)

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