チャンパ王国が滅亡した理由

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かつてベトナム中部にはチャンパ王国というインド文明の国家が繁栄していました。
チャンパ王国の建築は、ベトナム中部に未だに遺っています。その中でもミーソン遺跡は世界遺産に指定されているので、ご存じの方も多いかと思います。

チャンパ王国とベトナムの関係

ミーソン遺跡

ミーソン遺跡をみていただくとわかるように、チャンパ王国は約1000年間中国の支配下にあったベトナムとはまったく異なる文化を持っています。チャンパ王国の持つ文化は、お隣の国アンコール(クメール文明)や海の向こうの島嶼部ジャワと近いものでした。
細かい説明の前に、お時間がある方には是非下の動画を見ていただきたいです。
特にベトナム(Dai Viet)・チャンパ(Champa)・カンボジア(Khmer)の関係に注目ください。15世紀以降は徐々にベトナムの領土が広がり、チャンパが消滅し、カンボジアも縮んでいきます。

この動画を見ただけではわかりづらいですが、14世紀あたりまではチャンパとベトナムは一進一退を繰り返しており、チャンパが決して小国だったというわけではありません。1371年と1378年、チャンパ王国はハノイ(タンロン)を襲撃し一時的に占領し略奪したという記録がのこっています。
 しかし15世紀以降勢力が衰えて、すこしずつベトナムに領土を奪われていきます。なぜ、15世紀以降チャンパ王国は衰えて行ってしまったのか、そして国の領土がなくなってしまったのか、その理由について筆者が調べたことと推測を踏まえて書いていきます。

左 ベトナムの南進 右 東南アジア年表

1.気候環境に恵まれなかったため

ファンランにあるホアライ遺跡 乾燥した土地に立つ祠堂

チャンパの国力が衰えた。というよりは、チャンパがベトナムより強い国になれなかったのは、ベトナム中部という地域が気候・環境に恵まれていなかったという理由があります。
地図をみて分かるとおり、ベトナム中部は人間でいう腰のくびれ部分にあたり細くなっています。東の海岸からチュンソン山脈まで細いところは、距離にして50kmほどしかない部分もあります。山間部が多く、平野が少ない、しかも紅河デルタやメコンデルタのような肥沃な土地ではありません。ベトナム中部は乾季が長く乾燥した土地です。雨季なれば台風の通り道となり、度々洪水の被害にあってきました。そんな土地で生まれたのが「占城米(チャンパ米)」です。小粒で細長だが虫害や日照りに強く、痩せた土地やあまり耕起して無い水田でも良く育つ品種の稲で、宋代の中国で盛んに栽培されました。
記憶に新しいのは、2020年ベトナム中部に何度も台風が通り、フエやホイアンの街が水浸しになりました。

元々チャンパ王国の土地であった、ベトナム中北部(フエやホイアンなど)は洪水、ベトナム中南部(ニャチャンやファンティエット)は乾燥した気候であり、紅河デルタを持つ北部やメコンデルタを持つ南部と比較すると決して良い土地ではありませんでした。 
 ホーチミン市からニャチャンやファンティエットへバスで行ったことがある方はわかると思いますが、ファンティエットあたりに来ると土地が乾燥しているため、稲作ではなくとうもろこしやドラゴンフルーツ(サボテンの仲間)などの果樹を栽培しているのを見かけるようになります。その他は、綿や絹・タバコの栽培、ヤギの飼育などが行われています。
 
かつて紅河も洪水を繰り返しましたが、辛抱強く灌漑と干拓を行い、農業国家としてベトナムは力をつけてゆきます。しかし、チャンパのあったベトナム中部は平野がない、洪水が多い、乾燥した気候、ということで農業での収穫はあまり期待できませんでした。中世以降ベトナムと力の差が生まれた一つの原因と考えられます。

2.曼荼羅国家だったため

曼荼羅

東南アジアの国は、よく「マンダラ国家」と言われます。
「マンダラ国家」とは同じ文化を持つ小国の集合体です。チャンパ王国の王は「王の中の王」と呼ばれます。チャンパはいくつかの小国で構成され、その中で一番力をもった王がチャンパ王国の王とされました。
日本の徳川幕府をイメージしてもらえばわかると思いますが、徳川幕府は日本全国を直轄していたのではなく、直轄領は限られており、他の土地は各藩が自治権をもっていました。幕末に薩英戦争がおきましたが、日英戦争ではありません。薩摩藩と英国の戦争であり、幕府も他の藩も戦争に加わりませんでした。(ただし、農業国家である日本は国土の管理もされていたため、藩の境界線は明確でした。マンダラ国家での境界線は曖昧です。また天皇のように金も)

マンダラ国家の場合、国内でも勢力が争いがあるため、外敵が侵入してきた際に小国が見捨てられる可能性があります。そしてマンダラ国家は王の力次第です。チャンパの国王が小国の王をまとめる統率力があれば良いですが、チャンパ王国と小国の王が反発しあっている時期にベトナムが南下してくれば、小国の王だけでベトナムに対抗しなければなりません。

対するベトナム(大越)は、14世紀以降、儒教を利用して中央集権の国家を作り上げます。中国支配下時代に教え込まれた律令制・官僚制のノウハウを活かして、マンダラとは違う整った国家組織を作りました。王(皇帝)が多少腐っていても、国家組織がしっかりしていれば、簡単には転びません。必要なときに必要な兵力を集結して国を守る事ができますし、組織力によって他国へ侵略する力がつきました。

チャンパと他国の境目は、歴史書にでてくる地図でみると線引されていますが、当時の東南アジアでは境界線などというものはありません。特に山間部は曖昧です。ベトナムは現在でも54の民族がいると言われるように、山間部には昔から少数民族の暮らす地域です。チャンパの主たる民族といわれるチャム族は平野の民であり、バナール族やザライ族など山の民とは協力関係にあったものの、チャンパの民とは違う世界に住んでいました。
 漫画キングダムではないですが、ベトナムとチャンパの戦は平野の民同士の戦いでありました。山間部に暮らす少数民族はその戦いに巻き込まれることはありましたが、山間部はベトナムやチャンパの力の届かない地域でした。

東南アジアでは、土地よりも人の集団が国家としての集団として重視されていました。それが小さい集団(各民族)の集合体であるマンダラ国家の姿です。
しかし中華文明を持ったベトナムは、土地を手に入れて農地を増やし人を育てること(入植)で、少しずつ領土を拡大してチャンパの領土をベトナム化していきます

話がそれますが、12世紀にはアンコールワットなど数々の壮大な建築を建て、東南アジアで随一の遺跡を残したアンコール朝も15世紀以降弱体していきます。カンボジアもチャンパと同様インド文明のマンダラ国家でした。西のシャム(タイ)と東のベトナムに挟まれて、多くの領土を削り取られてしまいます。不幸中の幸いカンボジアが生き残ったのは、シャムとベトナムの緩衝地帯になったことです。カンボジアはシャムとベトナムどちらも宗主国とする時代がありました。しかしチャンパには、対ベトナムにおいて、後ろ盾となる国はありませんでした。

3.宗教的な分裂

東南アジア最大級の大乗仏教寺院があったとされるドジュオン遺跡

チャンパ王国は長らくヒンドゥー教のシヴァ神を最高神として、シヴァ派の信仰を行ってきたヒンドゥー教国家でした。11世紀には東南アジアで最大級の大乗仏教遺跡といわれるドンジュオン仏教寺院を建築しますが、現在は一部の門が遺るのみです。ほとんど跡形も残らず破壊されており、ヒンドゥー教の教徒が破壊したのではないか、という説もあります。

チャンパ王国の末裔と言われるチャム族は、現在約50万人いると言われています。インド文明の国家チャンパ王国の民族だけにヒンドゥー教徒かと思いきや、現在のチャム族はほとんどがイスラム教徒です。ベトナム中南部ニントゥアン省とビントゥアン省に遺るチャム族の約6割が正統派チャムの「チャム・ジット」と称する「バラモン教徒」が約6万人、残りが「バニ」と称するムスリムです。しかし、バニはかなりヒンドゥー化したイスラム教徒だと言います。
 チャム族の正統派イスラム教徒は「シャフィイー」と称し、ベトナムでは南西部ティンザン省へ行くとシャフィイーが暮らしており、ムスクを見ることができます。
 実はカンボジアに住むチャム族が一番多く30万人以上(9割がシャフィイー)、その他マレーシアやタイ、アメリカなどでムスリムとして生活しています。

農耕に適さない土地を持つチャンパが、長年に渡ってベトナムなどの隣国と張り合ってこれたのは、海のシルクロードの拠点として、マレーシアやインドネシアなどの島嶼部そして、北は中国、西は中東そしてヨーロッパと貿易を行う海洋国家だったためです。現在では世界遺産に指定され、古い町並みののこるホイアン。以前はチャンパの港湾都市として、貿易拠点となっていました。(ホイアンあたりまでをベトナムに奪われてからチャンパの弱体化が進んだようにも思います。)

チャンパ王国とイスラムとの交流は歴史が長く、10世紀にはすでにチャンパ王国内にムスリムの拠点があったという説があります。ヒンドゥー教国家のチャンパも貿易を通して沿岸部からイスラム化していったものと想像できます。

14世紀以降、インド文明を基盤としたチャンパにおいて、イスラム教が布教していくことで、チャンパ国内の民族が宗教が分断されて、国としての一体感無くなっていった。しかし、その時期ベトナムは農業大国として安定した国家組織を作り上げていました。ベトナム国内でも仏教徒と儒教徒が対立する時期もありましたが、仏教と儒教は役割分担することで、うまく住み分けして村の中まで入っていきます。

マンダラ国家であったチャンパは、国内でイスラム教が布教することで、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒がバラバラになり、同一言語同一文化を持つ小集団の集合体としての国家体制を保てなくなったのではないでしょうか。

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チャンパ建築

 

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ドンコイ通りの建築

 

バーディン広場周辺の建築

 

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